アドビはいっそ製品の代金で金を取るのをやめて、Ctrl+Zを一回押すたびに10円が徴収されるシステムとかを作れば絵描きの技能がメキメキ上がる…。 Twitter / AkatsukiKatoh (via katoyuu)

(c610から)

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fileth:

Twitter / pakosun: http://t.co/cTnn7mKd3e

弟「天空にはラピュタ!
床下にはアリエッティ!
風の谷にはナウシカ!
崖の上にはポニョ!
そして隣には…トトロ!!
ダ、ダメだ…ジブリに完全に囲まれた」

私「そして…思い出にも…マーニーが…っ!!

(via tkr)

(magurohdから)

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●たとえばわれわれは「イスラエルとパレスチナの問題はアメリカに肩代わりしてもらえばいい」と暗黙の了解として思っている。いいかえれば、われわれは目立たないようにしながら、ローンの残金を払いつつ、温暖なところで祝日を楽しみたいだけなのだ。

●ところが問題は、われわれはスイスではない、ということだ。

●イギリスは特別な国であり、マグナ・カルタから大英帝国のように、言葉と法律、そして鉄道やゲーム(クリケット、ホッケー、フットボール)、そして衣服や文化に至るまで、それが生み出してきたものが達成してきたことを、世界中から尊敬の眼差しで見られているからだ。

●帝国は、前の世代に急速に終焉に向かったのだが、これこそがイラクやパレスチナ、ナイジェリア、そしてパキスタンを始めとする国々で、いまだに殺戮が続けられている原因の一つである。

●たとえばイラクというのは、1932年にイギリスが「イラク王国」として建国する以前は存在しなかった概念であり、われわれが統治する都合のために勝手にまとめあげられたものである。

●パレスチナは広域の「レバント」という地方の一部であり、オスマントルコの統治下でシリアとレバンも含んだ概念であった。パレスチナのイギリス統治は1948年に終わったが、これは聖地のユダヤ人とイスラム教徒たちの総意を得たものではなかったために、彼らの戦いは現在でも続いている。

●ナイジェリアのボコ・ハラムの問題も、北部のイスラム教徒が南部のキリスト教徒に不満を持っており、彼らは互いに歴史的に一つの国家を共有した経験を持っていないのだが、これはイギリスが1914年に北部と南部を統一しまい、しかも1960年に一つの国家として独立させてしまったことに原因がある。

●インドではパキスタンという無理のある概念の国ができる際に、百万人以上が死んでいる。それまではインド内のヒンズー教徒とイスラム教徒は静かに共存できていたにもかかわらず、イギリスは分割統治の手法をジンナーとネルーに使い、これによってわれわれは暴発寸前のインドから脱出することになったのだ。

●われわれの世代は、前の世代のように拙速になってはいけないし、われわれの政治家は怠惰になってはいけない。また、企業は緊張を避けようとして臆病になってはいけない。われわれは、自分たちの子孫に、さらに問題が山積みになって、しかもわれわれの安全を直接脅かしてくるような世界を残してはいけないのだ。

イギリスには「歴史的な過ちを正すべき」という道徳的義務がある。好むと好まざるとにかかわらず、すでにわれわれは世界の紛争の多くを(つくりあげたとは言えないにしても)間違った形で処理してきた状況を引き継いでしまっているのだ。

アメリカとのパートナーシップの下、われわれはキプリングが述べた(現在は政治的に使えない用語だが)「白人の責務」を背負わなければならないのだ。 自国の「過去」の精算すらアメリカに頼ろうとする英国 : 地政学を英国で学んだ (via futureisfailed)

(edieeleeから)

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 終戦間際、米軍に接収され、あるいは破壊され、抹殺されたとされる国産ジェットエンジン。

 『橘花(きっか)』での試験飛行成功で、その存在が目立っていた「ネ20」は、逃れようがなかったが、まだ世に出ていなかった「ネ130」は信州の山の中でひたすら日本の独立を待ち、再びわが国の原動力となることを待っていた…。そんなドラマがあったのかどうかはもはや誰にも分からないが、とにかく当時、深く関わった土光敏夫氏がジェットエンジン事業に強い思い入れを持っていたことは確かだ。

 戦後、7年の航空禁止令が解け、すっかり途切れたかのように見えたジェットエンジン製造に乗り出すことを決めたのが、後に「めざしの土光さん」と呼ばれた同氏だと聞いて、意外に思われた向きもあるかもしれない。土光氏といえば、合理化や質素倹約というイメージがあるが、戦後、ジェットエンジン事業に乗り出した際のキャラクターは全く違う印象だ。

 「少なく見積もっても、向こう10年は赤字になるだろう」

 名だたる各社がそう見通し、次々に断念した。また、欧米ではるかに進んでいる技術であり、はなから負けている日本の一企業が、損失覚悟で乗り出すことを嘲笑する者も少なくなかった。そうした中でも、同氏の信念は決して揺るがなかったのである。

 そんな劣勢のケンカに、あの土光さんが打って出たのはなぜか。それは、その人後に落ちない憂国の情によるものと言って過言ではないだろう。


 「ジェットエンジンの開発・製造を始めなければ、日本の戦後は始まらない!」

 その思いは、多くの技術者たちにもあった。しかし、それを誰が無理を通してでも実行するのかが大きな問題だった。かつては太っ腹な決断ができる企業人がいて、またそれが許容される世の中でもあったのだ。

 土光氏は、そうと決めると、次々に国産ジェットエンジン製造につながる施策を行った。

 まず昭和30年代に自衛隊が導入した戦闘機F86のエンジンJ47のライセンス契約を製造元のGE社と締結。そして、間もなく、終戦直前のごく短い期間にジェットエンジンを作り上げ、「日本のエンジンの父」と言われていた海軍航空技術廠(空技廠)の種子島時休(たねがしま・ときやす)氏と、その部下だった永野治氏などを次々に招聘(しょうへい)した。石川島重工業(現IHI)を日本のエンジン技術の総本山としてのブランドにすべく、足場をしっかりと固めていったのである。

【ニッポンの防衛産業】憂国の情で国産ジェットエンジンに取り組んだ土光敏夫氏 (1/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK (via yukiminagawa)

(edieeleeから)

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Twitter / unasaka0309: 田舎でJKと川遊びしたい人生だった